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Virtual Insanity ~バーチャル・インサニティー~

生活、時事問題、趣味のことなど幅広く、日々思うことを綴っていきたいと思います。多分、中道左派です。

中野信子著『サイコパス』の感想~脳科学と人間について考えたこと

こんなに何でもかんでも脳みその形(脳画像診断)で人間の在り様を説明してしまってもいいものだろうか。いや、違うだろうというのが感想です。

 

230ページの文春新書なのですが、消化不良の感が否めません。

著者の中野さんは、言いたいことを、削って、削って、文春に言われるがままに、とりあえず新書の形まで削ぎ落としたという気がしてなりません。

このテーマなら、400ページはいけたと思います。次は、同じ主題で、ハードカバーでお願いしたいです。

 

著者によれば、サイコパスであるか否かは、脳の構造でほぼ説明がつくことになります。それは恐ろしい話なのですが、そうなのでしょう。

とくに第2章で、脳画像診断の成果をもとに、平易に詳しくサイコパスサイコパスたる理由が述べられています。ただ、少々危なっかしい話だと思います。診断結果をもとに、「サイコパスを排除せよ」という言論に容易に結び付くからです。

 

サイコパスが、存在する。そうなのでしょう。

サイコパスであるか否かは、脳の形状で決まる。そうなのでしょう。

サイコパスの脳の形状は遺伝で決まる。この辺で読み物としては危なっかしくなります。

サイコパスであることは、ほぼ遺伝で決まるということを受け入れたとしましょう。サイコパスが存在し続けているのには、人類という集団の視点から見た場合、「人類の進化」「種の繁栄」に有利といった「意味」があるかもしれません。しかし、この辺で私は疑義を差し挟みたくなります。人間が存在する意味は、「人類の進化」「種の繁栄」といった、人間が理解できる根拠・発想を超えたところにあるという信念を私は抱いているからです。

この文章を読んでくださっている方、私、この文章に触れない無数の方々は、「人類の進化」「種の繁栄」といった、人間が思いつく程度の意味に基づいて、今、そこにいるのではないと思います。そう信じています。

 

サイコパスの存在意義を、時に酷薄かつ果断な決断を下して、人類全体を進化させ、種の繁栄をはかるためと説明することは可能でしょう。であるならば、「人類全体を進化させない」「種の繁栄に寄与しない」個体は、ためらうことなく自分の命を絶つのではないでしょうか。「人類の進化」「種の繁栄」というのは、一見もっともらしい「生きている意味」のように見えますが、それですと、説明できない現象や気持ち・感情があまりにも多すぎます。たとえば今私は、この文章をアメリカのミュージシャン、プリンスの『パープル・レイン』を聞きながら打っています。音楽を聞きながら文章を打つという行為は、「人類の進化」にも「種の繁栄」にも何の寄与もすることはないでしょう。また、プリンスの『パープル・レイン』が「人類の進化」や「種の繁栄」に寄与しているでしょうか。ノーでしょう(プリンスの音楽が人類を進化させた/彼の音楽がレコード会社の売上に貢献し、レコード会社の従業員とその家族を養い、種の繁栄に寄与したというのは、誤答です)。「人類の進化」やら「種の繁栄」への寄与とやらという座標軸上の点では、かすることさえもできない活動を、人間は営むものなのです。

この本はサイコパスである方が生きやすい環境・時代が、かつてあった、現在でもあるということを述べています。そこでは、「サイコパスを出現させる遺伝情報が引き継がれる」、それ以上のことはまったく説明していないと思います。

 

この本は、人間という存在を、人間の内側、脳科学という一断面で何もかも説明してしまおうと試みて、うまくいっていないと思います。いや、著者は、そういうおつもりではないと思います。ただ、そのような意図しない読み方をされるおそれのある書物だとは思います。中野さんは、この新書における、こうした失敗に多分、気付いておられるような気がします。

 

中野さんは、サイコパスでも住める社会が望ましいと述べておられます。ただ、この本を読んでしまっては、サイコパスも社会の一員として受け入れようという、中野さんの主張に同意しかねるという人も生んでしまうのではないかと思います。もっと、人間とは何か、善悪とは何か、神とは何かといった、答えのない、観念的な話でもって補足しないと、ともすれば優生思想の片棒を担ぐようにも読めてしまう恐れのある本だと感じました。

ですから、しつこいですが、次回は400ページのハードカバーでお願いします。薄い新書でサイコパスという言葉を広めた、中野さんの社会に対する義務ではないかと思います。