「波風立てずに生きる」をモットーにしている人への嫉妬

「波風立てずに生きる」ことができる人に嫉妬しています。

いや、軽く軽蔑しているかもしれません。

私はどちらかと言えば、波風を立ててしまう人間だと思います。

人間関係を築く上で、あるいは続けるうえで、障害があると感じた時、私は、当人にそのことを口に出して言うことが多いタイプだと思います。言ってみて、自分の思うようになるかどうかはわかりません。でも、一言いわないと気が済みません。

そんな私は時折、「波風立てるうっとうしい人間だ」という視線を感じることがあります。でももちろん、本当のところはわかりません。

 

「波風立てずに生きる」というのは一見、平凡なモットーですが、実のところ、狡猾で強靭で時には攻撃的なものです。

よく言えば、「潮目を見極めて生きる」ことであり、悪く言えば、「長いものに巻かれて生きる」ことだと思います。

このようなことができる人は、「潮目を見極める」判断力を持つとともに、「長いものに巻かれる」精神的なタフネスを持ち合わせています。判断力が不十分で、精神的にタフでなければ、「波風立てずに生きる」ことは、どれだけ望んでも不可能でしょう。先ほど、狡猾で強靭と述べたのは、こうしたことを指します。

では、「波風立てずに生きる」ことが攻撃的であるとはどういったことでしょうか。これは、わかりやすい例を挙げるならば、いじめの傍観者のスタンスをとることです。

ある人が不当な暴力の被害(いじめ)に遭っている。自分はそれが不当だと思う。しかし暴力の加害者や取り締まる人物に進言するなど「波風立て」れば、自分も被害者になってしまう。そうした冷徹な計算に基づき、自分を守ります。同時に「波風立て」ないことにより、不当な暴力を許容します。暴力の被害者から見ると、傍観者たる「波風立てずに生きる」人も加害者にカウントしたい時があるかもしれません。言うまでもなく、被害者への暴力は相変わらず続きます。

こうしたことから、「波風立てずに生きる」ことは、実は非常に攻撃的な側面があるのです。

ただ、「波風立てずに生きる」ことによって、「自分を守る」という人間にとって基本的な任務はまっとうされるので、どんな場合にも、これが批判されるというのは当たらないでしょう。

 

いずれにせよ、自分には、精神的なタフネスが欠如しているので「波風立てずに生きる」ことは、この先もできそうにありません。また、「波風立てずに生きる」人物たちに、あんまり魅力も感じないのが正直なところです。時折、彼ら、彼女らに嫉妬しつつ、私は、波風立てて、不器用に生きていくことでしょう。