蒸し風呂守衛室 後編

前編のあらすじ

 

精神疾患のために勤務先を退職した僕は、郷里の町に帰り、障害者枠で、鶴亀商店の守衛室に職を得た。梅雨に入り、守衛室は容赦のない暑さに見舞われる。

 蒸し風呂守衛室 前編 - Thursday's Child

 

 

  その日、鶴亀商店の守衛室の扉を開けた僕は、猛烈な熱気で頭がくらくらした。

「暑いですね」

「おう、暑いのう」

「冷房は入らないんですか」

 その部屋にはエアコンが設置されていたのだ。しかし、奇妙なことにエアコンを動かすリモコンは、守衛室には置かれていないのだ。エアコンの電源コードはバンドで縛られ、ほこりが浮いている。コンセントには差し込まれていない。

「入らん」

「入らないんですか」

「この部屋を涼しくしても、もうけにならんから、入らん」

「ああ…。わかりました」

たしかに守衛室を涼しくしても、電気代がかかるだけで、もうけを生み出すとは思えなかった。

 しかし、その日はまさに「猛暑日」で、猛烈な暑さに耐えるのが苦痛だった。帰宅した僕は、軽い頭痛を覚え、風邪薬を飲んで、早々に寝込んだ。

 やがて梅雨は明け、真夏日が続いた。そして、時折、猛暑日が訪れた。耐えるしかなかった。

 僕は谷に聞いてみた。

「誰かにお願いして、冷房を入れてもらえないんでしょうか」

僕は篠田という、薄いブルーの作業服を着た、がたいのいい男性従業員が冷房設備の管理責任者だということを知っていた。

 谷は答えた。

「篠田に言うても、だめだ。守衛室が涼しくても、もうけにならんと言うだけだ」

扇風機が生温い風を運ぶ。

 谷に頑固なところがあることに気付いていた僕は、もうこれ以上、何も問いかけても無駄だろうと思った。

 やはり猛暑日のある日、いつものように蒸し風呂守衛室で、鎮座していると、広沢が僕の様子を見に来てくれた。

「こんにちは。谷さん、いつもありがとうございます。島崎さん、調子はどう? それにしても、この部屋暑いですね!」

広沢は思ったことを、すぐに口にするタイプだ。

「エアコンあるのにつけないんですか?」

広沢が谷に問いかける。

「つかない。言ってもだめなんだ。篠田というやつが、何でも決めている。何回言ってもだめだ。守衛室を涼しくしても、何の得にもならんからな」

谷はあきらめきっているというよりは、憤慨していた。

「いやー、こんなに暑くては、島崎さんの体調が心配ですよ。人事部の人に話してみようと思います」

広沢は行動が早い。広沢は、僕を鶴亀に紹介した経緯があり、人事部長と懇意にしていた。人事部長を広沢が説得できれば、篠田も動かざるを得ないかもしれないと思った。

 語気を強めて、谷が言い放った。

「言ってもダメだって。世の中、教科書通りに行かないの」

谷には、何らかの確たる信念があるのだ。

 その日、谷との間に普段から壁を感じていた僕は、自分のことを知ってもらおうと、自分が病のために、ほとんど動くことができなかった時期があったことを、ほんの少し伝えてみた。

「え、なんでだ、どこか、腰か、ひざでも悪くしたか」

谷が聞き返してきた。

「いえ、ここの問題です」

僕は自分の頭を右手の人差し指で示した。

「ほう」

「心の病」という言葉が広まってしばらく経つが、谷は、そういう人の生の声を聞いたことがないのだろうという印象をもった。

 2人の間の壁が少し溶けたのかもしれない。谷が口を開いた。

「おれは、今の鶴亀で、いちばん古いんだ。昭和33年」

僕は驚いた。谷は、どこか別の会社を定年退職した後、このパートの仕事をハローワークで探して、鶴亀にやってきたのだと思い込んでいたからだ。話を聞いていくと、谷は鶴亀の創業間も無くからの従業員で、鶴亀を定年退職した後、短い間、年金生活を送っていたのだが、当時、健在だった創業者から、乞われて守衛室のパートを始めたとのことだった。

「後から入ってきた者どもは、言うことをきかない」

谷は少し気色ばんだ。

 谷がそう言うのに僕は少し共感した。無言で守衛室に入ってくる従業員たちから、谷が敬意を抱かれているとは思えなかったからだ。むしろ、「守衛室でぼんやりしている無愛想なじいさん」という評価をくだされているように思っていた。

「この守衛室の工事を業者に発注したのは、おれなんだ」

谷は続けた。そして、昭和33年の入社以来鶴亀の様々な部署をまわり、今で言えば、ジェネラリストとして鶴亀とともに生きてきた長い時間のことを語りだした。

「いろんなことを鶴亀で学んだ。そしていま、後から入ってきた者たちは、おれの言うことを聞かない。何回言っても聞かない。そんな奴らに何を言っても無駄だ。ケンカしても馬鹿馬鹿しいだろう。冷房のことも何回も言った。でもカネにならないから、ダメだって。そういう奴らと話し合って、いがみあっても、どうしようもないだろ」

 この日の話を聞いて、僕は、なぜ谷が頑なで、守衛という縁の下の力持ちという立場にありながら、妙にお高くとまっているのかが、ようやく理解できた。そして守衛室の蒸し暑さが少し和らいだような感覚を覚えた。

 翌週、朝の天気予報で、予想最高気温が37度と発表された日に、広沢がいつものように、何の前触れもなく守衛室にひらりと姿を現した。

「谷さん、いつもお世話になっております。今日も暑いですねー。人事部長さんに助けてもらって、篠田さんという方と、話をつけましたよ。島崎さんに倒れてもらったら、私、クビになりますので。ははは。今日の午後から冷房入れるとのことです。よかったですね。あははは。島崎さん、リラックスですよ。リラックス。また来ますね」

 その日の午後、作業着姿の篠田が無言で守衛室の扉を開け、脚立に登り、黙ってエアコンのフィルターをきれいにし、ほこりをかぶった電源コードの端をコンセントに差し込んだ。次に篠田は作業ズボンのポケットから、エアコンのリモコンを無造作に取り出した。そしてそれを谷の机の上にぽんと置いた。

「28度。帰る時は、スイッチを切るの、忘れないでね」

それだけ言い残して、篠田はバタンと扉を閉めて出て行った。

 リモコンを受け取った谷は、ふうっと息を漏らし、硬い椅子に座り込み、リモコンのスイッチを押した。

 エアコンのグリーンのライトが点灯し、送風口が開いた。

 そして谷は、リモコンのボタンを何度か押した。リモコンの液晶には大きな文字で「22」と表示されていた。